どうしても俺のことが判(わか)らないならそれでもいいんだ。
ただ 判らないこともあると言うことを判って欲しい。
「判らない」は理解の起点であって終点ではない。
理解は、共鳴ではなく、理解できないものの存在を認めることから始まる。
これは、6日の朝日新聞の、折々の言葉で紹介されていた、一文です。
これを読んで、”理解できないものの存在を認める“ことができたら
人間関係から生まれる苦しさのほとんどは、クリアになりそうだと思い
記憶に留めておこうと思いました。
その翌朝、パートナーと険悪な空気になりました。
喧嘩というか、分かり合えないと思った朝でした。
きっと、言い争えば、どちらにも言い分があったと思います。
わたし達夫婦は、仲が良いと言われることが多く
実際、仲はいいと思いますが、分かり合えないことも、多々あります。
どんなに仲が良くても、感受性も、得意不得意も、全然違います。
共感していることも沢山あるけど、それが全く同じかどうかは
相手の身体の中に入って、相手の体感を感じてみないと
ホントのところは、わからないです。
パートナーが、お昼は別々で、と言って出かけて行ったあとに
ものすごくムカつきながら思いました。
得意不得意の凸凹の落差が、わたしは、特に大きい。
パートナーは、わたしのその凸凹を
けっこう理解しようとしてくれているのではと、思われます。
それだけは、どんなに相手に頭に来ている時でも、認めることができます。
相手が、表情や態度でイライラを示して
こうだから、こうして、って言葉でリクエストしない性格にムカつきながらも
自分がすっかり相手の予定を忘れ去って、何一つ配慮できなかったのは事実だったから
それを謝るメッセージは、送ることにしました。
お互いに帰ってきてから、朝の空気を引きずって過ごすのはイヤだったし。
『私は自分の予定も間違えるから、人の予定は何回言われてても
すっかり忘れ去ってしまう。時間配分に配慮が足りなくてごめんね。』
そしたら、
『理解しているから、大丈夫。心配ごとがあった。だから僕も悪かった』
と、返事が来ました。
パートナーは、すぐに言葉で言わないで、イライラするまで我慢するから
わたしにはそこが分からないし、理解できない。
わたしは、イライラする態度を取るくらいなら、先にお願いしちゃうから。
今日はこうだから先にこうしてって、言ってくれればいいのに!って思います。
だけど、言いにくいっていう性格を理解できなくても、
相手はそうなんだな〜と認めていれば、
朝、こちらから予定を確認する努力は出来るから、そうしてみようと思います。
「判らない」は理解の起点であって終点ではない。
理解は、共鳴ではなく、理解できないものの存在を認めることから始まる。
理解できないものを認め合うために使うのが
言葉のコミュニケーションなんだろうな〜。
これからも、わたしはそこを、成長させたい。
理解できないものを認めようとできる、広く高い視点を持った人へと成長したい
そう思った出来事でした。