目の前にいる相手と共に「いる」ということ、
相手のために、ただ「いる」ということ、
それには、自分自身が「いまここ」とつながり、ジャッジメントをしないフラットな状態でいることが、必要になりますが、
それが、どれほど、相手の心を平和にし、安心感を与えるか、
そして、その安心感は、同時に共に「いる」自分にも、生まれてくるものなのだということを、体験する出来事がありました。
それはある日の、障がい者支援施設での体操の時間で起きました。
いつも、感情を持て余してしまう、青年。
その日は、体操に参加するけれど、すぐに気分が変わって、心に渦巻く鬱憤のような、満たされない感情をコントロールできずにいました。
片隅で壁をたたいたり、床をたたいたり、文句を言ったりして、しばらくすると、また参加して、また怒る、を繰り返していて、
一時は忘れても、なんともすっきりと晴れない、満たされない気持ちを持て余していたのでしょう。
彼は、マッサージの時間が好きです。
わたしはいつものように、背中をスリスリと擦ります。
手のマッサージが好きなのを知っているので、「手もやる?」と聞いてみたら、「今日はやだ!」と言って、両手を胸の前に抱えて隠しました。
わたしは「わかった。じゃあ、背中だけね。」と言って、また背中を擦ります。
すると、右手を差し出し、「やっぱり、やって!」と、
80%はイヤという雰囲気で、残りの20%を差し出すように腕を伸ばしている、そんな感じの仕草でした。
素直になりたいけど、なれない。そんな自分で自分を持て余す感覚を、わたしは自分自身のカラダの中に、思い出していました。
子どもの頃に感じた、素直になれないモヤモヤした感情。
わかるな・・・その気持ち。
「はい。やっぱり手もやろうね。」
「うん。」
マッサージしながら「反対もやる?」と聞いてみました。
「反対は、やだ!」
「はい。じゃ右だけね。」
「うん。」
しばらくすると、
「やっぱり、こっちもやって!」
「はい。いいよ。右をやったから、左もやろうか。」
「うん。両方やって。」
このやり取りの間、青年とわたしの間には、ずっと、平和な穏やかな時間が流れていたように思います。
彼は、自分の希望がひとつづつ、かなえられるたびに、持て余した感情を、ひとつづつ手放して、なんの否定もされずに、ただそのまま受け入れられる安堵感で、自分を満たしてゆくようでした。
わたしは、ひとつづつ、彼の希望を受け入れるたびに、まるで自分自身がありのまま肯定されていくようで、やさしい気持ちに満たされていきました。
体操が終わり、靴を履いて部屋から出るとき、少し離れた所から、聞き慣れた声で呼ばれました。
青年が、とてもやさしくて、ピュアな空気をまとった雰囲気で立っていて、
『どうもありがとう。』と、穏やかな表情と柔らかな声で言いました。
「はーい。またね。」と言うと
「うん。またね。」と言って、自分の持ち場へ戻ってゆきました。
彼は、自分でも手に負えなかった感情を、もう、どこかに置いてきたようでした。静かに満ち足りた、充足感の中に立っているように見えました。
人に寄り添うって、こういうことだな、って思いました。
目の前にいる相手と共に「いる」こと。
相手を大切にし、相手に関心を持つこと。
存在すべてがまるごと肯定されること。
人間にとって、これ以上の『癒し』はないのではないだろうか。
いっさいのジャッジメントがない、自分と相手の双方が肯定された安心感の中で、ただただ存在し、理解し合っている感覚・・・
平和ってこういうことだと思いました。
忘れられない経験です。