新緑の若葉が輝くGW。毎年この頃になると、モネの睡蓮を観たい衝動にかられます。睡蓮が好きな人は多いですよね。
わたしも睡蓮には特別な思い入れがあります。
昨年の今日は睡蓮に会いに、熱海のMOA美術館へ出かけましたが、残念ながら、絵は手放されていて観ることは出来ませんでした。
今年は、タイムリーに開催されていた、国立新美術館『至上の印象派展/ビュールレ・コレクション』で、壁面いっぱいの大きな睡蓮の絵を観ることが出来ました。
(睡蓮の池、緑の反映 200×400)
モネの睡蓮を観ると、涙があふれてきます。
説明のできない涙になる、身体の中に立ち上がってくるその感情を、睡蓮はそっと包んでくれて、わたしはとても癒されます。
モネは、壁いっぱいの睡蓮で一室を装飾する構想を考えつきますが、白内障で視力が低下し、妻と子を亡くした深い哀しみも重って、絶望の中、多数の絵を切り裂きます。
ある日、置き去りになっていた睡蓮の絵を見つけ、もう一度筆を取り、生涯をかけて睡蓮大装飾画を描き続けました。
私は、自分の心の奥に抱えていた哀しみや寂しさ、あきらめの気持ちを、睡蓮に重ね、モネが注いだ生命の伊吹に、感動していたのかもしれません。
昨日、モネが絶望からもう一度筆を取り、睡蓮に命を注ぎ続けた話に触れて、そう、思いました。
今読んでいる本の中に、生きていくことを旅に例えた文章があって「本当の旅の発見とは、あたらしい風景を見ることではなく、あたらしい目を持つことにある」という一文があります。
私はここ何年かの人生で、あたらしい目を持ったように思います。
そのあたらしい目で、思春期の頃に、泣きながら観た睡蓮を観たら、どんなふうに映るだろう。
そんなことを思っていたら、
今朝、ちょうどFBに、その絵のことを書いた記事が、思い出として上がってきました。
「今、観たら、どんな風に映るだろうか、、」同じことを書いていました。
自分の成長を感じたときに、思い入れのある、睡蓮の絵を思い出すようです。
FBの記録していた言葉を、ブログに残しておこうと思います。
🎨
モネに会いに行った
子どもの頃 絵を見て涙が出るんだと 初めて知った黄色い睡蓮の絵
MOA美術館のクロード・モネの睡蓮は4年ほど前に所蔵品ではなくなったそう
「わたしも好きでした」とインフォメーションの女性が優しく伝えてくれた
いつ見ても涙が出て ずっと座って眺めたあの絵を 今見たらどんな感じがするのか体感してみたかった
でも 気付いていた気がする
わたしはもう あの絵に癒してもらわなくても大丈夫なんだって
行方はわからないけれど きっと何処かで誰かの心に寄り添っているに違いない
あたたかな黄色が映った睡蓮の池を もう見れないと思ったら 心の中に住んでる気がしてきた
だって目をつぶると会えるから